徒然なるままに

日常のあれこれなど

激動の15年間を描いたアニメ『平家物語』

もしかすると学生時代、古典の授業ではその物語の始まりの一文を暗唱したひとも多いのかも知れない『平家物語』。
歴史の授業では、平安時代から鎌倉時代へと変わっていく流れの一つとして教わったひとも多いだろうと思う。うん、かく言う私もその一人。

平家物語』は平安時代の武士・平家一門を中心に綴られた「軍記物」で琵琶法師が語り継いできた約800年前のお話。
鎌倉時代に成立したと言われているけれど、正確にいつ成立したのかも、また作者も不明という物語なのに、しっかり現代の教科書に載ってるなんて、凄いよね。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

この一文から、平安末期、栄華を極めた平家一門が滅びの一途を辿っていく話が始まるわけで、現代では様々な人が現代語訳の本を出版してるんだけど、今回、アニメ化されたのは、古川日出男氏が現代語訳した版を基としたものだそうな。

2022年1月から放送スタートした、このアニメ『平家物語』。
私はすっかりハマってしまって、最後は涙なくしては観られなかった。(T_T)

連続アニメでほぼ1クールの僅か11話で、壇ノ浦の戦いの後の灌頂巻・大原御幸まで描き切ってるから、物語の展開が早い。
でも、だからこそ余計に胸が締め付けられる。
思えば、平家物語の結末は、もう現代の私達は判りきっているわけで、謂わば、壮大なネタバレが最初からなされているんだよね。だから、僅かなさり気ない描写に隠れている、その後へと続く滅びへの道に至る伏線さえも、はっきりと見えてしまう。そりゃ、心が苦しくなるのは当然だよね。確実に滅びへと進んでいっているのを目の当たりにしているんだもの。

今回のアニメでは「びわ」という琵琶法師の娘が語り部となって、現代の私達に『平家物語』を語ってくれるという手法で、最初の第1話の始まりは、ここから『平家物語』が始まりますよ~と言わんばかりに、平家のシンボルであるアゲハ蝶がひらひらと舞い、沙羅双樹の花が映し出され、私達を『平家物語』の世界へ誘ってくれる。

そして私達は平安時代へと足を踏み入れる。
青い空、色づく緑、はらはらと落ちる雪、暗い夜に仄かに灯される灯、透き通る水、あらゆる風景が優しい。だからこそ、その優しい色により一層の儚さを感じてしまう。
だって私達は目の前の彼らが、やがて滅んでいくことをもう知っているから。
そう、全てが儚い――そんな儚く残酷な物語を「びわ」が語っていく。

けれど、そんな滅びの運命にあっても、確かに彼らはその時まで精一杯生きていて、驕り高ぶり、悪行を尽くしたと思われている彼らも、また、精一杯に生きた人間なんだと解る。だから余計に切ない。

物語としては、平清盛とその息子の重盛、重盛の息子の維盛、資盛、清経、重盛の妹の徳子(のちに高倉天皇に輿入れし、安徳天皇を生んだ)と「びわ」を中心として話が進んでいくのだけれど、福原に住むようになった清盛から平家の棟梁を任された重盛は「平家の良心」と呼ばれるほど礼を尽くす人物として描かれ、父親の清盛と後白河法皇との狭間で板挟みとなる苦労人。何と4話で早々に亡くなり、そこから僅かに保っていた平家と後白河法皇との均衡が崩れていくのがよく解る。やがて清盛も亡くなると、平家は坂を転がり落ちるように滅びへと突き進んでいってしまうのを見ると、もし重盛が生きていたら、また違った形だったのだろうか? と思わずにはいられない。
特に、重盛の息子達のうち、一番心優しい嫡男の維盛にとっては、重盛が亡くなってからはさぞ苦しかっただろうと思えて。

だから維盛の最期は、泣いた。
出奔した維盛は出家し、父親である重盛がかつて詣でた熊野の地を、父親の跡を辿るように回り、やがて補陀落渡海の道を選んでいく。
びわ」と再会するのは、まさに補陀落渡海へと向かう時。

びわには視えるのだったな……。

先が視える「びわ」だから、もう維盛の心が決まっていることは解かっていただろう。だから、維盛に会いに来たのだと思う。けれど、解っていても、それでも「びわ」は、何とかしたいと口を開く。

維盛、変えられぬとは分かっておるが、名を変え、どこぞで静かに……

その時にやんわりと頭を振った維盛を観た時、もう私の涙腺はヤバかった。

もう往かねば……。

優しく「びわ」の頬に手を当てて「びわ」の瞳をそっと見た維盛の表情は、全ての苦から解放されたような穏やかなものに見えて。維盛は救われたのだと思いたい。

父上と同じ瞳の色……、美しいのぅ……。

穏やかな顔で、「びわ」にそう告げた言葉に呆気なく私の涙腺は崩壊した。

最期まで「びわ」に対して維盛は優しかった。
初めて、父親の重盛から「びわ」と引き合わされた時、一番最初に「びわ殿、よろしくお願い申し上げまする」と頭を垂れた維盛の姿が、そして縁側で座る二人が庭の桜を愛でながら桜餅を食べる、あの幼き日の風景が一瞬にして脳内に鮮やかに蘇ってくる。

そんな心優しい維盛が、そして鳥の羽音で驚いて尻もちをつくくらいに怖がりな維盛が父親亡き後は、必死に背伸びをして平家の兵士であらんと、精一杯努力はしたんだよ。けれど元来、武士の気質ではなかったんだろうし、戦で大敗を喫してしまい、精一杯張りつめていた心の糸は切れてしまった。

維盛は平重盛の嫡男ではあったけど、今で言えば、品の良いおっとりとしたお坊ちゃまだったんじゃないかな。人と争うことも嫌だし、舞の方が得意。生臭い人間の欲や権力が渦巻く魑魅魍魎とした部分に直に触れることは父親の重盛が亡くなるまで、多分なかったのかも知れない。だってずっと父親の重盛がそれを引き受けていたんだもの。
だから父親が亡くなり、平家と法皇との力の均衡が崩れ、屋台骨が揺らぎ始めた一門の中ではどうすることも出来ず、なのに圧し掛かるものはどんどん膨らんでいって、維盛は維盛なりにそれでも足掻きながらも踏ん張ったんだろうと思う。
だから心が折れたのは、確かに戦に負けたこともあるけど、それだけが要因じゃなくてもう既に限界だったのかも知れない。

そんな維盛が最後に縋ったのは仏門で、心の中に覆い被さり、檻のように巣食う闇から、そしてそれを怖れてばかりの自分自身からも解放されたかった。維盛にとっては、生きながらえることは地獄に墜ちることと同義だったのかも知れない。心が地獄に彷徨ったままでは、最早生きているとは言えなくて、だから全てを終えようと補陀落渡海の道を選んだ。
それを逃げだと誰が言えるだろう。
この時代はまだ、補陀落渡海の道を選ぶことが許されていたのだから。

「それくらいのことで」という者もおるやもしれませぬ。
ですが人が耐えられる苦しみに自分が耐えられるとは限りませぬ。

仏門にくだる維盛を迎えた滝口入道の言葉は、今の私にも凄く深く響く。
確かにその通りよね。私はこの言葉で、少し自分が赦されたように感じる。うん。
維盛もこの言葉で赦されたのだと思いたいな。
そして私は、維盛を赦したもう一人は「びわ」だと思うの。

びわ:そなたのことも語ろうぞ
維盛:何もかもから逃げた、私のことを?
びわびわは、そなたのこともようよう知っておる。大切にしたい。
維盛:ならば、生きたかいもあるやもしれぬ

びわ」と維盛の別れ際のこのやり取りにそう感じたのね。
びわ」は維盛の全てを受け止めて、維盛のその決断を赦したというか。うーん、赦したというより尊重したって感じかな。
『だって、私の知ってる維盛なら、きっとそうするんだろうから。だからそんな維盛を大切にしたいんだよ』って。
そんな言葉に維盛はやっと、自分の生きてきた道を肯定して何の迷いもなく旅立って逝けるんだよね。
『だとしたらとても嬉しいよ……生きた甲斐があったよ』と。

そして、維盛は補陀落渡海し、海に身を投げ、27年の生涯を終えることになる。
念仏を唱え合わせるその手は僅かに震えていて、最期まで維盛らしい、切ない場面だった。

維盛……、最後まで怖がりだったの……

だから維盛を想った「びわ」のその言葉に私の涙腺は大崩壊。もうダメだった。

そんな維盛とは対称的に、重盛の次男の資盛は、幼い頃はやんちゃで「殿下乗合事件」の原因を作っちゃったけど、一番のリアリストというか、ある意味、達観してると言うか、冷静に自分達の置かれている状況を理解していたように描かれていた感じ。
三男の清経は、朗らかで笛が上手で、ただ状況の変化を受け入れることが出来ず、最後は入水してしまう。
あぁ、重盛が本当、もっと生きていたら……と。

そして、高倉天皇に輿入れした重盛の妹の徳子。
物腰が柔らかく、理知的で凛とした女性。
安徳天皇を産み、母親となった徳子はひと際、芯の強さが目立って己を貫くようになったと思うの。
夫である高倉上皇が危篤であるにも関わらず呼びつけて、上皇亡き後の徳子の処遇について話す清盛に対して

わたくしをまだ父上の野心の道具になさいますか?

と、キッパリ告げるまでに。

また、清盛が亡くなった後、徳子が、院に戻った後白河法皇に目通りした際に、

望まぬ運命が不幸とは限りませぬ。
望み過ぎて不幸になった者達を多く見てまいりました。
得たものの代わりに何を失ったかも解らず、ずっと欲に振り回され……。
わたくしは、泥の中でも咲く花になりとうございます。

そう告げた姿に、望まぬ輿入れではあったが、今は自らの意思で此処にいるのだと、運命を受け入れたのだと思った。母となると強くなるのだなぁと。

けれど、最後、壇ノ浦では目の前で我が子の命が消えゆくのを目にし、自らは入水するも助けられ、アニメの最終話である11話のラスト、大原御幸では、後白河法皇が「どうすれば苦しみを越えることができるのであろうかのう」の問いに、

祈りを……。
私にもまだ忘れられぬ想いがございます。
ですので、ただ、ただ、こうして皆を、愛する者を思い、そのご冥福を祈っているのでございます。
ただそれが私に出来ること。

そう応えて、静かに手を合わせるまでになる。

平清盛の娘として生まれ、帝の妃となり、その御子を産み、飢えることも凍えることも知らず、美しく移りゆく季節を楽しみ、その栄華の中に身を置いておりましたことはまるで、天上界の幸福であるかのように思われました。
都を落ち、一門は戦に明け暮れ、海の上では水を飲むことすら出来ず……。
生者必滅……我が子の命が消えていくのさえ、この目で……。
人の世にある苦しみは、全て自分のこととして思い知らされました。
一つとして分からぬ苦しみはございませぬ。

徳子のこの「六道の語り」を、もし今の自分の身に置き換えたとしたなら、もう絶望しかないし、到底、立ち直れそうもないと思うんだけど……。
人の世の苦しみは全て知ったと告げる徳子は、本当に強いひとだと思った。
全てを受け入れて、赦したんだろうか……。かつて自らに誓ったように。
絶望すらも受け入れて、全てを赦して、そして、祈りをただ捧げている。

特に、アニメ最終話のラスト。
もう涙なくしては見られない。というか、涙で見えない。
大原御幸のシーンから流れる音楽と、そこからのエンデイング。
五色の糸がより合わさっていくのとともに、「びわ」役の悠木碧さんの声に途中から合わさる形で、平重盛役の櫻井孝宏さんの声で、平家物語の冒頭の文が読みあげられていくのね。

祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

最後の『たけき者も~』からは、重盛の声(つまり櫻井さんの声)なんだけど、一番最後の『偏に風の前の塵に同じ』の結びの部分がね、もう涙腺崩壊しているのに、尚も一層の涙なんですよ。

そして琵琶の音色が響き、終幕を迎えた『平家物語』は、それと同時に、全てが巻頭まで巻き戻り、再び祈りを込めた鎮魂の物語として語られていくことになるのだろうなと思わせる演出で。

阿弥陀仏の像の手から自分の手に掛け渡した五色の糸を握る徳子の手には平家のシンボルであるアゲハ蝶。
五色の糸とは、臨終の時に念仏者を極楽浄土へと導くものなんだそうな。
そしてアゲハ蝶は、紫雲たなびく空へと飛び立っていく。
きっとそのアゲハ蝶は徳子で、極楽浄土へと旅立って逝けたのだろうと思いたい。

『また今度』

徳子が五色の糸を握りながら口にした言葉は、こんな言葉だったのかもね。
極楽浄土で愛する者達と、今度こそは幸せになって欲しいと思う。

 

いや、全11話でこのクオリティは凄すぎる。
このアニメ『平家物語』も、何度もリピートして観る作品に堂々の仲間入り。
もう既に何度も11話全話をぶっ通しで一気に観てるけれど、観れば観る程、古川日出男氏の現代語訳版の平家物語が読みたくなる。

それにこのアニメ全編に使われている音楽。
これはアルバムを絶対にゲットせねばと思わせる程の秀逸な作品だと思う。
特に、最後の11話、後半の大原御幸から流れる曲『purple clouds』は、まさに祈りの曲だと思う。約800年間、祈りとともに人々が語り継いできた物語そのもの。

 

 

あぁ、いいアニメに出会えたわ~。
泣きすぎて目が腫れてまぶた開かなくなるけど、やっぱり何度でも観たいと思う。

そんなアニメ『平家物語』をもっと詳しく知りたい方は公式サイトへ!

TVアニメ「平家物語」公式サイト

琵琶法師により語り継がれ、後世の文学や演劇に大きな影響を与えた大古典『平家物語』。《監督》山田尚子×《脚本》吉田玲子×《キャラクター原案》高野文子×《音楽》牛尾憲輔による初のTVアニメ化!

 

人々が語り紡いできた、祈りと鎮魂の物語、ここに堂々アニメで完成――。
日本の宝がまた一つ生まれた感じ。